おかやま住宅工房
中川 大
NAKAGAWA Futoshi
中川
山本さんに初めてお会いしたのは、以前勤めていらっしゃったお店『くらしのギャラリー』に行ったときで、器のことをとても丁寧に説明してくださったんですよ。本当に、よく知っていらっしゃるなぁと感心していたら、ある日、倉敷の融民藝店を引き継ぐことになったと新聞で紹介されていて、びっくりしました。
山本
僕も中川さんのこと、印象的で覚えていますよ。イ草の籠とかを熱心に見られていて。
中川
倉敷民藝館などで『民藝』の世界を知るようになったのですが、ちょっと難しいイメージがあったんです。でも『くらしのギャラリー』に行くようになってイメージが変わりました。2022年2月に融民藝店を引き継がれて1年が過ぎましたが、いかがですか。
山本
仕事としては融民藝店の営業日が木・金・土・日曜日の4日間。月・火・水は作り手さんの所に行ったり、展示会のDM作りをお手伝いしたり、民藝協会が作っている雑誌の写真を撮影するなど、店以外の仕事をやっています。
中川
カメラマンでいらっしゃったから、広報的なお仕事もできるということですね。
山本
広報するぞ!という気はあまりないのですが、お声がけがあればお引き受けしていて、あっという間に日が経ってしまいますね。
中川
作り手さんの所に伺うとしたら、ほとんど県外ですか?
山本
県内が中心です。行けるときは3日間フルに使って沖縄や九州に行ったり、日が取れなければ日帰りで兵庫県や京都などにも行きます。
中川
2011年の東日本大震災後に倉敷へ移住されたそうですが、ご出身は岡山ですか?
山本
そうです。倉敷の青陵高校を卒業して県内の大学に入ったのですが、そのころから写真が好きで、アルバイトでフィルム代と現像代を稼ぎながら写真を撮っていました。3年生になって友だちの就職が決まっていくなかで、僕はもう少し自分の好きな写真を突き詰めたいなと思って、東京の写真スタジオに入りました。スタジオだから雑誌や広告やカタログなど、いろいろなタイプの写真が見られるんです。そこに勤めて2年ほど経ったときに制作会社へ移ってカメラマンを続け、結婚して子どもも生まれました。
その子が障がいをもって生まれたのですが、仕事でかなり時間が拘束されていたので、もっと家族に関わりたいと思ってフリーランスになりました。広告系や、フットワークが軽くできる雑誌などの撮影をやっていくなかで、リトルプレスという媒体に関わるようになりました。フリーのデザイナーや編集者で本を作るのですが、ものづくりに関連する本が多かったんです。
フリーランスになって5年ほど経ったときだったでしょうか、2011年に東北の震災があって、そのころ、二人目が生まれました。当時、震災関連の瓦礫を都内数か所で実験的に受け入れていて、僕が住んでいた世田谷の家のそばの大きな公園にもゴミ処理場がありまして。周辺の放射線量がすごく上がってしまい、生まれたばかりと小学校に上がる子ども二人の子育てをこれから先東京でやっていくイメージが湧かなくて、思い切って岡山に帰って来たんです。写真の仕事ができればいいなとは思いましたが、何も考えていなかったです。リトルプレスの延長線上で、岡山のものづくりを発信できたら何か形になるのではないかと思って、いろいろな人に会っていましたね。
そのころ、勤め先であった岡山県民芸振興株式会社の方とも知り合いになりました。運営している『くらしのギャラリー』が天満屋のテナントから問屋町の路面店に移ったばかりでホームページもなくて、これから会社として発信力をつけていきたいと言われていました。僕としても岡山のものづくりを発信して、実際に店でお客様に渡せるといいなと思って、入社することになったんです。そのときは『民藝』という意識はまったくなかったですけど。
その子が障がいをもって生まれたのですが、仕事でかなり時間が拘束されていたので、もっと家族に関わりたいと思ってフリーランスになりました。広告系や、フットワークが軽くできる雑誌などの撮影をやっていくなかで、リトルプレスという媒体に関わるようになりました。フリーのデザイナーや編集者で本を作るのですが、ものづくりに関連する本が多かったんです。
フリーランスになって5年ほど経ったときだったでしょうか、2011年に東北の震災があって、そのころ、二人目が生まれました。当時、震災関連の瓦礫を都内数か所で実験的に受け入れていて、僕が住んでいた世田谷の家のそばの大きな公園にもゴミ処理場がありまして。周辺の放射線量がすごく上がってしまい、生まれたばかりと小学校に上がる子ども二人の子育てをこれから先東京でやっていくイメージが湧かなくて、思い切って岡山に帰って来たんです。写真の仕事ができればいいなとは思いましたが、何も考えていなかったです。リトルプレスの延長線上で、岡山のものづくりを発信できたら何か形になるのではないかと思って、いろいろな人に会っていましたね。
そのころ、勤め先であった岡山県民芸振興株式会社の方とも知り合いになりました。運営している『くらしのギャラリー』が天満屋のテナントから問屋町の路面店に移ったばかりでホームページもなくて、これから会社として発信力をつけていきたいと言われていました。僕としても岡山のものづくりを発信して、実際に店でお客様に渡せるといいなと思って、入社することになったんです。そのときは『民藝』という意識はまったくなかったですけど。
中川
カメラマン時代にはいろいろな写真を撮っていたと思いますが、リトルプレスの仕事を通じて特に手仕事やものづくりをしている人たちに興味が湧いたのはなぜでしょうか。
山本
例えば大手企業に入社すれば生活は安定しているかもしれないけど、景気の流れで急に仕事がなくなることもあるじゃないですか。でも、ものを作る人にしても、店を営む人にしても、それだけでその人たちって「生きる力」があるじゃないですか。そいうのってすごいな、そんな人がもっと増えたらいいなと思ったんです。岡山には、ものづくりをする人や個性的なお店が多いです。分散しているものをまとめて発信できたらというのが最初の考えでしたね。
中川
前職の岡山県民芸振興株式会社には10年ぐらい勤めたことになりますね。その間、仕事としては、店に出たり、作り手の方に会ったりされていたのですか?
山本
ちょうど9年です。10年目で融民藝店を引き継ぐことになりました。取引は上司が全国の作り手を訪ねたり、百貨店と打ち合わせしたりして、僕はホームページを作ることから始めてSNSでどのように発信していくかを考えたり、展示会の準備をしたり、大阪の阪急梅田本店にできた店舗の品物の準備をしたりしていました。岡山の本店も問屋町に移ったばかりであまり知られていませんでしたし、店をどうやって拡めていこうかと考えていました。入りたての僕に任せてくれたので、それはいい経験でした。
中川
そうなさっている中で、融民藝店の小林融子さんとお知り合いになったのですか?
山本
当時、僕にはまったく「民藝を広めるんだ」という意識はなくて、まず『民藝』って何?というところからでした。勤めていたのが岡山県民芸振興株式会社という社名でもありましたし、『民藝』とは何かを知らないと何もできないなと思って、まずは倉敷民藝館、大原美術館へ行ってそのあと融民藝店にも寄って、というのが倉敷へ来たときの定番ルートのようになりました。小林さんは岡山県民芸振興のご出身なので、気にかけてくださって。訪ねると、器にコーヒーを入れて「ハンドルのバランスがいいでしょ」とか「口元の作りが…」とか、使いながら、僕も感じながら『民藝』を知るという機会が融民藝店に来ればありました。
展示会前のタイミングだと、店の奥で器にシールを貼るお手伝いをさせていただいたこともありました。いろいろと教えていただいて、僕としてもとても思い入れのある店でしたね。
展示会前のタイミングだと、店の奥で器にシールを貼るお手伝いをさせていただいたこともありました。いろいろと教えていただいて、僕としてもとても思い入れのある店でしたね。
中川
そうやって関係を築いて来て、店を引き継いでもらえないかという話になったのですね。
山本
そうですね。店を閉めるということはなんとなく聞いていたのですが、2021年の6月ごろに、小林さんたちが「後継者を探している」と新聞に紹介されたんです。このあと店をする人、大変だろうな、って思っていました。
中川
他人事のように。
山本
他人事でしたねえ。
中川
融民藝店さんとしては「山本さんにお願いしたい」というのはなくて、後継者についてはまだぼんやりとしていたのですか?
山本
前職を通じて作り手との繋がりはあったので、僕がやったらスムーズなんじゃないかとは思っていらっしゃったのでしょうけど、まずはいろいろ考えてくださったんだと思います。 最終的に、ほかにいないとなって、夏ごろお店に伺った際「やってみない?」とすごく軽い感じで言われました。
最初は冗談だと思いましたけどね。でもそのあと熱心に言ってくださって、いろいろ考えました。僕もとてもお世話になっていたし、倉敷に来て駅から歩いて来ると『みんげい融』と標した白い看板がある光景がなくなったら、ものすごく後悔すると思ったんです。一度やってみてダメだったらしょうがないけど、最初から断ってこの融民藝店が新しいカフェとかになったら、すごく後悔すると思ったので、ひと月ぐらい考えて妻にも相談しました。上司にも相談し、やらせていただける方向で話が進みました。
最初は冗談だと思いましたけどね。でもそのあと熱心に言ってくださって、いろいろ考えました。僕もとてもお世話になっていたし、倉敷に来て駅から歩いて来ると『みんげい融』と標した白い看板がある光景がなくなったら、ものすごく後悔すると思ったんです。一度やってみてダメだったらしょうがないけど、最初から断ってこの融民藝店が新しいカフェとかになったら、すごく後悔すると思ったので、ひと月ぐらい考えて妻にも相談しました。上司にも相談し、やらせていただける方向で話が進みました。
【つづきます】
民藝とは
「民藝」とは「民衆的工藝」のことで、大正時代末期に思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし)らによって提唱された。芸術家が作る鑑賞するための美術品ではなく、名もなき作り手による、機能的な美しさを備えた日々の暮らしのための器や道具のことを指す。民藝の品を保存し、普及、発展させる民藝運動が全国に広まり、各地の民藝館を拠点に現代に受け継がれている。
融民藝店
1971年、『民藝』の普及を推進する実業家らの支援を受け、小林融子氏が店主となって倉敷に開店。百貨店で民芸担当として知識と経験を積んでいた小林氏は、作り手を訪ね、使い手の視点に立った手仕事を大切に、配り手として信頼を得ていった。50年の時を経て引退を決意。2022年、山本尚意氏に経営が引き継がれた。
岡山県民芸振興株式会社
岡山県における民藝運動の拠点として1947年に創業。岡山市北区問屋町の「くらしのギャラリー本店」では、幅広い世代に手仕事のある暮らしの楽しさを伝えている。大阪「阪急うめだ本店」と岡山市北区「杜の街グレース」にも直営店を構える。初代社長・杉岡泰は、融民藝店の運営を小林融子氏に託すべく尽力したメンバーの一人。
倉敷民藝館
1948年、重要伝統的建造物群保存地区(倉敷美観地区)に開館。1934年に柳宗悦を初代会長として日本民藝協会が設立され、日本民藝館(東京・駒場)を皮切りに全国に設立されていった民藝館、工藝館のうちの一つ。国内はもとより、東洋、西洋を問わず、日常で使われてこそ美しい、名もなき作り手による手仕事を展示している。初代館長は外村吉之介。